会長コラム“展望”

問題解決へのアプローチ

2019/10/01

社会


「誰も気にしちゃいないよな、まあ当たり前だけど」


先日、会社の飲み会で近くの韓国料理店に連れていかれた。料理店といっても、大勢で行くようなお店でカジュアルな居酒屋みたいなところだが、見渡す限り全ての席が埋まっていて大盛況の様子。

お隣さん韓国との政治的な対立は、わたしたちの日々の生活に影響を与えることはない、というかそんなこと意識することもない、というのが日本人にとって一般的。わたしもこの9月に出張の予定があるが、先方から「来ないでくれ」とでも言われない限りはキャンセルするつもりもない。


しかし、韓国の人たちにとっては受け止め方が異なっているようだ。報道によると、日本を訪れる観光客が激減して、多数の航空便が運航中止になっているという。また、韓国にあるユニクロの店舗は売り上げが激減している、などというのもあって民間企業にも直接影響が及んでいるらしい。このような報道にだけ接していると「政治」も「民間企業」も「国民」も一緒くたにして、日本に対抗しよう、といった趣を感じてしまう、この感覚はわたしだけのものではないはずだ。日本からの観光客も今はさすがに減ってはいるだろうが、「こんな国に行きたくない」なんて思っている人は殆どいない。せいぜい「こんな時期だから止めておこうか」「事件にでも巻き込まれたら困るしなあ」というような意識が訪問を思いとどまらせている理由だろう。


国家間の対立は別として、このような国民感情の違い(というか嫌悪感の大小)はどこから生じてくるのだろうと考えてしまう。それは、国のなりたちや日本との歴史的な関係、地政学などさまざまな事情が複雑に絡んでいるのだろうが、わたしにはそこのところはよく分からない。ただ、何の知識もない素人にも分かることはある。それは、過去からのさまざまな理由で存在する国民の対立感情を増幅してやろう、という意図が韓国の政治には存在しているということである。


でも考えてみれば、これは特に珍しい話ではない。国を治めようとすれば、国民の負託を受けなくてはならないし、それを得るために有効なのは「物語」をつくってそれを信じ込ませることなのだから。そういえば、「サピエンス全史(ユヴァル・ノア・ハラリ著)」にもホモ・サピエンスが地球上の生態系を支配することになった理由を、「架空の物語を信じて、多くの人が協業することができたからだ」というようなことが書いてあった(この本は面白い、是非ご一読を)。


ハリウッド映画でも、日本のドラマでも、受ける「物語」には一定のパターンがある、なんて何かの本に書いてあった。それは「明確な敵、悪い奴らを設定する」→「そいつらに打ち勝つ、懲らしめることが必要だと訴え、パワーを集結させる」、このことで仲間たちとの一体感を創出する。映画やドラマの場合は、この後「敵を倒す旅に出て、たくさんの危機を乗り越え、最後に勝利する」これがパターンだ。


多くの人の支持を得るための方法論として、明確な敵を設定して、われわれを危機に貶めようとするこの敵に打ち勝とう! と訴えるのは一つの定石である。国を治めようとすれば敵は国の外に設定し、国内の支持を得る、アメリカの場合は、それが中国であり国境を接したメキシコであり、ときたま日本であったりする。この手口はかのアメリカの大統領をはじめとして、世界中のポピュリストの常とう手段である。ポピュリストが悪いかどうかは別の問題で、そのような相手であっても、選ばれてしまった現実は変えられないので、何はともあれ経済や環境、防衛など利害の一致点ではしっかり付き合っていかなくてはならない。

安倍首相の言う国家間の約束を守って欲しいという主張はなるほどその通りかも知れない。だが、その約束を守らせることを期待して、別のことで相手を困らせようとするのは間違っている。歴史問題の解決に経済措置を利用しようとしたら、さらなる反発を生んでしまい安全保障で仕返しされた、というのが今の状況で、これに関係のない人が巻き込まれ被害を被っている。


その結果として歴史問題の解決はさらに遠のいてしまった。そして、それぞれの国内世論もあるから振り上げた拳を降ろすこともできないでいる。正しいことを主張することは、それが通用する相手と状況の下でしか通用しないわけだ。勉強しない子どもからゲーム機を没収しても、子どもは反発するか、勉強をする振りしかしない。そんなことでは、しっかり勉強してほしいという目的は達成されないことは、観察力のある親なら知っていることだ。


今回の問題もそうだが、トランプ大統領の就任以来、世界中で国家間が「協調」から「主張」する時代に変わってきたような気がする。いいトレンドではないわな。


株式会社鎌倉新書

代表取締役社長兼会長CEO 清水祐孝