2019/06/01
社会
時々、新興IT 企業の若い起業家と会うことがある。中には①学歴や職歴がピカピカの人物が、②時代にマッチした新たなアイデアを引っ提げて独立し、③銀行や証券会社、ベンチャーキャピタル等の万全のサポート体制のもと、企業を上場させ発展させていく、といったストーリーを持った人もいる。そのような人と会ったりすると「ああ、若くて、カッコよくって、羨ましいなあ」なんて思ったりする。
わたしの場合は彼らとは全く異なり、長きにわたって零細企業のオーナーであり、小さな会社を「潰れませんように」なんてお祈りしながらやってきたクチだ。今やわたしなんかは古いタイプの経営者なわけだ。
だが、最近はさまざまなメディアから取材を受けることや、依頼されて講演をすることが多くなってきた。そして「どうやって会社を成長させてきたのですか」「経営手法について教えてください」なんて聞かれたりする。要はチヤホヤされるのだ。人間はチヤホヤされると勘違いしてしまい「自分は能力がある、才能がある」なんて思ってしまうものだが、それは全くのお門違いというものだ。その構造は、こういうことだ。
オールドスタイルの中小や零細企業における経営者(=オーナー)は、会社の存亡が個人の人生と直結している。会社に資金が必要になれば金融機関からお金を借りるわけだが、ほとんどの場合経営者はその保証をしなくてはならない。会社が発展すればもちろんハッピーだが、いったん会社が危機に瀕すれば、個人の生活はその状況に伴って厳しいものになっていく。危機から脱することができずに、会社が破たんしてしまうと、取引先や従業員に対して大きな迷惑を掛けてしまうのみならず、経営者である個人はその責任を社会から問われることになる。
具体的には、会社の負債を個人が肩代わりしなくてはならない。だけど肩代わりしようにも、そもそも会社と個人が一蓮托生の関係なのだから、そんなことできるはずもなく、個人も破産する羽目になる。そして、以後はその履歴とハンディキャップを背負った人生を生きることを強いられてしまう。
そんな目には誰だって遭いたくないと思うのは当たり前のこと、結果として、経営者の経営に対する感覚は研ぎ澄まされる。社長が優秀だとか、能力が高いというのは単なる迷信で、怖いから必死なだけなのだ。「1 円でも売上を増やしたい、1円でもコストを下げたい」という思いは強烈なのだ。でも、そんなことは従業員には分かるはずはない。もちろん彼らも売上を増やしたいと考えているし、コストを下げたくないわけでもない。要は経営者ほどには感覚が研ぎ澄まされるような環境に置かれていないだけなのだ。
この経営感覚はリスクと背中合わせの環境に置かれた者だけが得られる特権であって、能力ではない。つまり、経営者は優秀だから鋭い経営感覚を持っているのではなく、会社が危機に陥れば、個人の人生に直接影響が及ぶ仕組みがあるから、経営感覚が鋭くなるのである。当然そこには学歴なんて関係はない。むしろ大学など出ていない方が、人と同じ思考をしない人、異なる行動がとれる人、という意味で可能性が高いくらいだ。そして潰したくない、潰せないという強い思いが、アイデアを生み、行動に走らせる。さらに、そこから生じた経験の蓄積が、時間の経過と共に決断の的確性をどんどん高めていく。蛇足だが、それ故に次の世代は苦労をすることにもなる。そのような体験を経た経営者も、その子供たちに同じ境遇を提供することが困難だからだ。
「2 代目が会社を潰す」なんてことが良くあるが、それはリスクと背中合わせになる経験が得られないためで、彼らが能力に乏しいわけではない。
話は変わるが、これは移民も同様だと思う。知らない土地で、生命の危機を感じながら生きていくことを強いられれば、その環境はアイデアと行動の原動力となる。生き延びたいという思いの強さが違うからだ。そのような人たちが成功し、豊かになることは当然のこと。過去においての日本でもそのような事例はたくさんあるし、アメリカはそのことで活力を維持している国家のようにも思える(その状況を妬んでいる人たちを束ねてトランプさんは生き延びている)。リスクと背中合わせになって生きる人が増えれば、犯罪の増加等で社会が不安定になる側面もあるかも知れない。
でも、リスクを避けることにばかり力点を置く社会~日本はそのように思える~は難しいことは少し歴史の勉強をするだけでも想像がつくことだ。冒頭で書いたのような可能性のあるな人材がチャレンジし易い環境も大切だが、その裾野はどうすれば広げるのだろうか。海外からの人の流入も長期的に考えれば避けられないことだが、労働力不足を補うという視点をもっと拡張できないものか、などと思ったりする。「起業家」と「移民」はいまの社会の重要テーマなんだろうな。
株式会社鎌倉新書
代表取締役社長兼会長CEO 清水祐孝