2024/05/01
個人的価値観
「施設を卒業する子どもたちのうち、4名の大学進学が決まりました」
先般出席した児童養護施設の役員会で、このような報告があった。彼らはさまざまな理由から親とは一緒に暮らしていないという環境で過ごしてきたわけで、大学進学という選択には難しさもある。それだけに報告を聞いて素直に喜ばしいことだと思った。もちろん大学に行くだけが大事なわけじゃないし、働くことも立派な選択だから優劣をつけるという話ではない。それでも、一定のモチベーションを保ちながら施設で生活してくれたのだろうと想像されるわけで、そう思うとやっぱり喜ばしい。
ただ、施設を出て(児童養護施設は原則18歳で退所することになっている)学生を続けるとなると生活が大変だろうと思ったので、「彼らは学費や生活の費用はどうやって工面するのでしょうか」と、職員の方に質問してみた。こちらについては奨学金制度があったり、施設が支援する場合もあったりするといったような回答だったが、おそらく完璧な支援体制が整っているわけではないのだろう。
そこでこんな余計なことを想像してみた。もしわたしが子どもたちの進学を支援する社会貢献活動を行う立場であったとしたら、次のどちらをやるべきなのだろうか。
①上記のように、さまざまな理由から大学進学に困難を生じている青少年を支援する。
②特別な才能があったり、向学心が人一倍であったりして海外の大学に進学したい、けれども金銭的な工面ができない、という青少年を支援する。(例えば米国の主要な大学の学費は日本円にして年間800万~1000万円ほどする。ざっくりいえば日本の大学の6倍から10倍だ。米国内からの進学であれば奨学金やローンでこれらをまかなうようであるが、海外からの進学の場合、そのような支援を受けられるケースはごくまれなようだ。)
大学への進学を支援するという同じ行動でも、①であれば、②よりも数多くの青少年の支援ができる。②の場合、人数は少ないけれど、支援した青少年が社会で大きな役割を果たしてくれる人材に育つ可能性がある(もちろん、①の青少年にその可能性がないということではない)。
さて、どちらの社会貢献活動のほうが効用が大きくなるのだろうかなんて考えてみたけれど、そもそもこんな問いはまったく意味がない。比較すること自体がナンセンスなのだ。
例えばスーダンだとかパレスチナ等、紛争で困難に直面している国に出向いて医療支援を行う社会貢献活動がある。ここで、そうした紛争の現場で医療活動に従事する医師や看護師たちと、その活動を行う組織に金銭の支援をする人たちとでは、どちらを評価すべきなのか。
これまた比較するなんてナンセンスなのだけど、一般的には世間の評価は前者の人たちに集まる。でも社会のために「一歩踏み出している」という観点からすれば、両者を等しく評価することができるはずだ。
「自分がこうしたいと思うこと」はつまり「自分の評価」であり、「その行為を他人が評価する」つまり「他者の評価」が別個に存在しているわけだ。このように、異なる2つの評価が存在することを認識し、切り分ければ、自分の評価に従った行動を取りやすくなるし、いっぽうで他者の評価を無邪気に行うべきではないということに思いに到達することができる。
余談だが、4月5日の日経新聞の経済教室のページに、「日本外交専門家を育成せよ」というタイトルで、米国の学者の寄稿が掲載されていた。要約するとこんな感じだ。
世界情勢が急速に変化する中で、米国人に日本の役割や日米関係を正しく理解させることの重要度が増しつつある。いっぽうで今日、米国の大学で日本の外交や安全保障、日米関係を専門とする教員や科目が急減している。今日、日本の重要性が米国で理解されているのは、1970年代から2000年初頭にかけて日本を研究する専門家が米国に数多く存在し、活動を行ってきたからであるのだが、これを再構築することが重要だ。そのためにはいくつかの課題があり、ひとつとしては、企業や財団、慈善家からの寄付が求められる。
「なるほどなあ、考えたこともなかったけれど、こういったテーマも重要だよな」などと思った次第。たぶん自分の取り組みべきテーマではないけれど、こうしたことを知ることも、自分のこうしたいと思うこと=自分の評価、を明確にさせることに役に立つと思うのだ。
株式会社鎌倉新書
代表取締役会長CEO 清水祐孝