2015/07/28
個人的価値観
前々回「読んできた本に4色ボールペンで引いてきたアンダーラインこそが、わたしにとっての財産であり、この世の中で財産と呼ばれるものは、その副産物だと今では思っている」なんて偉そうなことを書いたら、それを読んだ大学時代の友人に茶化された。そう、当時わたしは毎日遊び呆けていて、そんなことを考える存在とは対極にいたのだ。わたしの学生時代をよく知る、そしてその後をよく知らない友人がギャップを感じたのも至極当然のこと。そこで、わたしは友人に「かのクリステンセン教授はこう書いているぞ」とメールを返しておいた。
「子どもたちは学ぶ準備ができたときに学ぶのであって、私たちが教える準備ができたときに学ぶわけではない」(イノベーション・オブ・ライフ)
まさにわたしは学ぶ準備ができていなかったのだ。その後社会に出て相応の時間が経ち、借金だらけの父親の会社を実質的に引き継ぎ、社員や家族を路頭に迷わせるわけにはいかないと思った時に、はじめて学ぶ準備が整ったのだと思う。同書の中でクリステンセン教授はこうも書いている。
「わたし自身のこれまでの人生を振り返ると、両親の与えてくれた最もすばらしい贈り物の一つが、二人がわたしにしてくれたことよりも、わたしにしてくれなかったことにあると気づかされる」
会社が隆盛だったら、一生学ぶ準備が整わなかったかも知れないと考えると、亡き父親にはほんとうに感謝である。
さて先日、家人が大学受験を目前に控えながら、危機感に乏しいわが子を案じて「あなたから、もっと勉強しなさい、規律正しい生活を送りなさいと諭して欲しい」と訴えてきた。父親とは異なり、わが子の生活ぶりを長い時間観察する立場にあるわけだから、心配になるのは分からないでもない。しかし、わたしがそんな説教をしても無駄であることは、ここまでの文脈からもお分かりだろう。彼はまだ学ぶ準備ができていないのであり、数十年の時が経ち、わたしは逆の立場に置かれているという話だ。(これを読むかも知れないので彼の名誉のために付け加えておくが、彼の置かれた状況はそれほど悲観的なものではない。志願して海外の高校に行ったし、卒業式では成績優秀者の表彰を受け、両親を喜ばせてくれもした。親というものはいつも高望みをするものだ)。
わたしは彼を説教によって変えることはできない。しかし、父親がわたしにそうしてくれたように、自覚を促し、学ぶ準備が整う機会を提供することは必ずできると考えている。それは取りも直さず、言葉ではなく自らの行動を通して示すべきであろうことも。ここで再度クリステンセン教授にお出まし願おう。
「あなたの子どもが、優先順位や価値観をよその人に学ぶなら、彼らはいったいだれの子どもだろう?」
このことは逆の見方をすれば、子どもにすばらしい人生を歩んで欲しいという思いが、親の行動の推進力となり得るということでもあり、子どもに成長して欲しいと願うなら、自らが成長しろということでもある。母親の訴えてきた問いの本質的な意味は、「キャリアが形成可能な時間内に、息子は学ぶ準備が整う(=自覚が得られる)のだろうか」ということである。大学入学までに間に合わなくても、次の機会はいくらでもある。しかし、その機会は時間の経過とともに少なくなり、可能性も低くなっていく。
そこで、どの時点で自覚が得られるのか、親としてどんな機会が提供できるのかという設問だというのがわたしの解釈だ。敷衍すれば、すべての人は自覚の学校の生徒であり、そこに気づく幸運を得られるか否か、得られるとすればどのタイミングで得られるかが重要な意味を持つこと。さて、母親のアプローチと父親のそれとは異なると思うのだが、息子を愛してやまない彼女はそのことを理解してくれるだろうか? こちらもヘビーな問題だったりして。
株式会社 鎌倉新書
代表取締役社長 清水 祐孝