2016/01/31
ビジネス
世界最大のインターネット小売店であるアマゾンで、一周忌などの法要の際に読経を行う僧侶の手配を3万5千円で受け付けるサービスが開始されたことが話題になっている。このような宗教的な行為を商業化しようとする事業者に対して、仏教関係者側はそうした行動はユーザーの誤解を生むもので改めるべきであると訴える。
では、いっぽうのユーザー側がどう考えているのだろうかと思い、ネット上の書き込みをみてみた。すると、こちらは圧倒的に事業者側に好意的な評価が多いようだ。残念なこと(?)に、多くのユーザー(=消費者)はこうした行為を宗教的な行為というより、サービスの提供を受け、見返りに金銭を提供するという一般的な消費行動と考えているわけだ。
仏教関係者にとっては、こうした宗教的行為の商業化が横行することは死活にかかわる大きな問題であるとは思うのだが、これまでのところそういった危機感は特に感じられない。仏教関係者を代表する団体である全日本仏教会でも、理事会を開催して正式な抗議の決議を行うのかと思いきや、理事長が談話をプレスリリースするのみにとどまっている。法要における読経は宗教行為であることには異論はないのだろうが、あくまでも提供者側と受領者側の合意があってはじめて成り立つものであるわけだから、それがサービスの消費であると多くの受領者(=消費者)から思われてしまった時点で、仏教関係者側はいくら主張をしても分が悪い。となると、自分たちの正論を声高に主張すればするほど騒ぎが大きくなり、結果的には消費者が離れていってしまうわけだから、ここは正式な抗議とせず、理事長談話としたのは適切な落としどころというところなのだろう。
日本における仏教の教化活動を行う基盤である寺院は、そのほとんどが檀家という名の会員をその経済基盤としている。檀家の人たちは自分や家族にとって必要な宗教行為を所属する寺院(=檀那寺)に行ってもらう。いっぽうで檀那寺の経済基盤は檀家が共同で担っていく、そうした持ちつ持たれつの関係が成立してきた。会員制スポーツクラブと同じ経済構造である。そしてこの制度は、過去の第一次産業中心の時代、つまり人が生活をする場所を変えない時代、にはじゅうぶんに成立し得た。ところが現代のように、産業構造が変化してサービス産業が中心となる、あるいは交通網が発達する、そうした背景から人が住む場所を頻繁に変える、という現代には全く機能しない仕組みとなってしまった。
この制度疲労を起こした問題は、高齢化が進む地域や、人口が流出する地域では特に顕著に表れる。地方に暮らす親と都市部に暮らすその子どもたち、こういった構造の家族は全く珍しいものではない。親が亡くなれば地方の寺院は檀家が減り、その成立基盤にマイナスのインパクトを与える。かといって、都市部に住まうその子どもたちがそこで寺院の檀家となるかと言えば、その可能性もほとんどない。彼らも葬儀やお墓などの宗教的な分野に対するニーズがゼロではない。しかし、そうした機会はとても少なく、檀家という名の寺院の正会員になってそのニーズを満たすより、冒頭のアマゾンのようなところからスポット購入すれば十分と考えているのだ。檀家になったところで、次の世代が暮らす場所を変える可能性もあるし、さらにその次もどこに住むかもわからない。また家系が絶える可能性もある。
寺院が純粋な宗教活動を行っていくには、経済的な裏付けはどうしても必要である。仙人のように霞を食って生きていくわけにはいかないのだ。正しいとか正しくないといった問題ではなく、宗教行為がサービス業だと思われ、檀家制度が疲弊していく中で日本の在来仏教はどのように生きる道を見出していくのだろうか。
株式会社 鎌倉新書
代表取締役社長 清水 祐孝