会長コラム“展望”

座右の銘

2016/02/28

個人的価値観

人間が目に見えるものだとか、数値で測れるものしか信じなくなったのは、ガリレオ・ガリレイ以来の流行である

先日、テレビの番組に出演する機会があった。とはいってもたくさんの視聴者が見るような民放キー局のものではない。経営コンサルタントとして著名な大前研一氏が主宰するビジネス・ブレイクスルーという衛星放送の有料チャンネルだ。とはいえ、わたしはこのチャンネルの開局以来のヘビーユーザーだったし、大前研一氏を勝手に師匠だと思っているのだから、キー局の番組に出るよりもよっぽど嬉しかった(本稿とは関係のない話ですが)。

さて、冒頭の一節はその番組で「座右の銘」は何かと聞かれてひねり出したものだ。これは思想家の小林秀雄がどこかに書いたか、あるいは語ったものをわたしが記憶していたものなので、ことばが正確かどうかは分からない。出典も検索しても出てこない。でも、30年以上このメッセージについて折に触れ考えてきた。

わたしたち人間は一般的に、目に見えないものは存在しないと考える。あるいは、数値を用いて科学的にアプローチすることに慣れ切っていて、そこで説明できないことは信じようとしない。しかし小林秀雄が言うのは、そう考えるようになったのは科学が発展した500〜600年前からのことであり、それ以前は(そもそも科学的なアプローチもなかったわけだから)現代人が信じられないようなことも、人々は日常的に受け入れてきた、ということだと思う。

そして、500〜600年という時間は、地球が生まれた40〜50億年や、人類の誕生の500〜700万年から比較すれば、それはつい最近のことで、流行と言われればその通りと頷かざるを得ないほどの短さである。文書にこのように書くと分かりにくいから、数字を大雑把に丸めて桁数を合わせてみた。

科学の発展・・・              500年前

人類の誕生・・・      5,000,000年前

地球の誕生・・・5,000,000,000年前

視点を変えると500年がどれだけ短い時間軸かが分かるだろう。

わたしたちの身の回りには、どうしてそうなったかが分からない、良いことや悪いことがたくさん起こる。そして、理解できないことについては自分にとっての都合という観点から、「運が良い」あるいは「運が悪い」という理解をする。しかし、一定の限度を超えた幸運や不運についての取り扱いは、神さま仏さまにその解釈を委ねようとする。そこで、特定の信仰を持つ組織や教祖さまのお出ましとなる。

不幸な人が「どうすれば、この不運から脱却することができるでしょうか」と救いを求めると、教祖さまは「○○の教えを信仰しないから、そのような不幸が起こる。不幸から脱却したければ、○○の教えを信仰しなさい。ついでに、寄進とお友達を連れてくることも大切な信仰です」とのご託宣が申し渡される。

いっぽう、限度を超えた幸運にも神さま仏さまは必要だ。なぜなら、幸運の人も「限度を超えた」幸運は受ける覚えはないからである。だから、この幸運は長くは続かないのではないかと考え神仏(多くの場合は占い師)に頼る。「どうすれば、この幸運が長く続いてくれるのか」と。

生きていれば、不思議なことはたくさん起こるのだから、そもそもそれを頭で理解しようとしなくても良い。科学が万能だと思ってしまうから、理解できないことを何とか理解しようとして、特定の信仰に縋ってしまう。理解できないことの存在を認めよう。そして、これらを無理に理解しようとせず、プリミティブな宗教的こころを持ち続けること。これが、冒頭の小林秀雄のメッセージから得たわたしの自己流解釈だ。

そんなわけでわたしは宗教的なこころを持ちつつ、特定の教えに対する信仰心は持ち合わせていない。宗教宗派を問わず、どこの礼拝施設でも手を合わせるが、それは雰囲気のよい場所をちょこっと拝借しているだけなのである。

株式会社 鎌倉新書

代表取締役社長 清水 祐孝