会長コラム“展望”

寺院と僧侶の今日的役割

2012/02/01

ビジネス


1年ほど前のことだが、カンボジアを訪れた際に偶然にも托鉢のシーンに出くわした。そこでは、5名の若い僧侶が信者の家の前で食糧(お米のようなもの)の施しを受けていた。そのときは単純に「このような良き習慣が残っていていいものだなあ」などと思ったのだが、考えてみればこ れは伝統だとかカンボジアの経済的な未成熟さがこのような習慣を維持させているということではない。同じ仏教とはいえ、こちらは上座部仏教の国であり出家者は生産や所有を行わないのだから、生きていくためには施しが必要であり、このような習慣が今もなお続くのは当たり前なのである。


一方の日本ではこのようなシーンに遭遇することはない。もちろん托鉢は時折見かけることがあるが、そこでやり取りされるのは、食糧ではなく金銭である。施しを行う側にとっての修行としては、食糧であれ金銭であれ、自らが所有しているものを他者に分け与えるのであるから、どちらも同様の意味を持つはずである。しかし、施しを受ける側にとってみればそれが生存のために必要不可欠なものか、さまざまな物品に交換可能なものかという違いはある。

しかしそこは、上座部仏教と大乗仏教の違いであって、後者では所有を禁じているわけではないし、そのこと自体に問題があるわけではない。何が言いたいのかというと、わが国では、伽藍を持つ出家者がその本分である布教活動を継続していくためには、金銭という裏付けが必要であるという当たり前の事実である。


寺院は日本に数万あると言われているが、そのほとんどが檀家と呼ばれる、いわゆる信者たちからの布施で活動を行っている。その経済構造は民間企業で言うところの、会員ビジネスと同様である。例えば、フィットネスクラブは会員から会費を徴収することで、その活動を成り立たせており、同様に寺院は檀家という名の会員から布施を頂くことで、その活動を成り立たせている。会員ビジネスにおいては活動を継続させていくためには、会員が安定的に会費を支払ってくれること が必要である。しかし、会員にもそれぞれ事情があり、退会する者もあるわけだから、それに見合った新たな会員の募集を継続的に行うことで収入の減少を補う必要性が生じる。

ところが、フィットネククラブはともかく、寺院においてはこの新規会員の獲得が極めて難しいという事情が存在する。

なぜな ら、産業構造が変わり今日人びとは生まれた場所で一生過ごすことは少なくなり(退会者の増加)、さらに新たな場所に移り住んでも、そこで寺院の檀家(会員)になろうとは、ほとんどの人が考えないからである。したがって、寺院がこのシステムを維持しようと思えば、退会者を極力減らすか、さもなければ活動のためのコストを削減するしか手立てがないのである(理屈的には会員ひとり当たりの収入を増やすという方法もあるが、これは現実的ではない)。そしてこのような事情が、例えば引っ越しのためにお墓を移転させようとする檀家に高額の離檀料を要求するなどのトラブルとなって現れるのだ。


このように変化する社会が寺院に求めているのは、従来からの檀家制度の維持ではない。そのことについて少し記しておこう。

例えば日本の家族はどんどん変化している。 その規模は小さくなり、核家族や単身家族がその大多数を占めるようになった。このような家族では、子どもがいない、家を継ぐ子どもがいない、あるいは子どもがいても遠くに住んでいる、などの事情を多くの人が抱えている。こうした人と人とのつながりが以前に比べて薄れてしまった人たちの心のケアは誰が引き受 けるのだろうか。あるいはそのような人が亡くなったとき、そのお骨は誰が管理し、誰が供養するのだろうか。

「シニアマーケット」ではなく、この「承継者いないマーケット」には爆発的な潜在力があることを、そしてそこでは寺院あるいは僧侶が大きな役割を果たせること、これが社会の要請であることをぜひとも認識してもらいたいと私は考えている。もちろん、このような仕事は宗教者の本分ではないと考えるか、そのような人たちが信仰の入り口に立っていると考えるかはそれぞれの自由であるが。

ちなみに近年クローズアップされつつある「遺品整理」や「永代供養墓」などは、このマーケットから生まれたヒット商品なのであ る。例えば社会の変化は「家族葬」「直葬」と呼ばれるように葬儀を小さなものに変えている。大規模な葬儀は寺院には荷が重いが、小さな葬儀ならば難しい話ではない。場所はあるわけだし。

このように社会の変化が檀家制度を制度疲労に追い込んでいるのだが、一方で変化する社会は新たな要請を寺院に行っている。そのように考えることが大切である。


勘違いされることも本意ではないので最後に付け加えておこう。私は寺院が経済基盤の確保に邁進すべきだと言っているのではない。資本主義、そして大乗仏教のわが国においては、布教と経済基盤の確保は車の両輪であり、どちらかが機能しなくなれば、もう片方が機能しなくなってしまうと申し上げたいのである。


株式会社鎌倉新書

代表取締役 清水祐孝