2025/03/01
個人的価値観
若い頃からたいへんお世話になった方が亡くなり、先日お葬式に参列してきた。いかにも銀座の旦那衆って感じのハンサムな紳士、そのうえ茶目っ気たっぷりで、いつも周囲を和ませていた人だった。長らく業界団体のトップを務めていて、若輩者のわたしが持ち込んだアイデアなんかも柔軟に受け入れてくれたりした。そんなこんなでわたしがとてもお世話になった人なので、出棺の際には元気な頃を思い出し、目頭が熱くなるのを抑えることができなかった。
「順番だよな」
お葬式に参列すると、いつもそう感じている。家族や親族、仕事やプライベート等でお世話になったり、ともに時間を過ごした人たちを送り出したりした最後には、必ず自分の順番がやってくる。この確実に起こる当たり前の事実を意識して生きることができるかってことは、とても重要なことだと思うのだ。つまりは死を意識するから、生の充実を意識できるということ。毎朝、目が覚めた時に「今日も生きていたわ、ラッキー」なんて日常から死を意識する人はそういない。だから、ときたま起こる他人の死に接する機会は、たいそう重要なのだ。その意味で、お葬式は「他人事」ではなく「自分事」そう思っている。
ところが、最近はお葬式に多くの人が参列することが少なくなった。他人の死を見て自分の生を考える重要な機会なので、こうした風潮はとても残念なことだ。
幸運なことに、わたしの場合は「終活」に関わる仕事をしていることもあって、近い将来に終わりが来ることを人よりは意識しているように思う。
「あと20年」
これが、現在62歳のわたしが設定している残存年数である。ちなみに日本の男性の平均寿命はおおよそ81歳だが、死亡最頻値は88歳程度だそうだ。そう考えるとわたしの残存年数ももう少し長くできるのかもしれないが、心臓が動いている期間ではなく、健康で自分でなんでもできる期間が人生(寿命と人生は違うってこと)だと考えると、やっぱり20年程度が妥当なところではないだろうか。冒頭で書いた先輩の亡骸に接した時は、自分の順番が来るシーンを思い描いた。ちょうど、小学生の運動会の50メートル競走なんかで、体操座りをしながら最後尾でスタートの順番を待っているの、これがいまのわたしだ。
自分の残存年数を意識するようになると、物事の優先順位が変わってくる。当たり前だが、まずは時間である。残された時間を意識するとその希少性に気づき、これをどう有効に過ごすかを考えるようになる。何を成し遂げたいのか、何に価値を感じるのか、そうしたことに時間を割いていこうと考える。
次はお金である。死後の世界がどのようなものかは知らないが、そこで貨幣経済が成り立っているとは考えにくい。そうすると、残存年数の間に必要なお金はあるけれども、その重要度合いは以前ほどではなくなっているわけだ。残存年数をこのように意識することで、時間やお金に対する新たなスタンスを確立することができ、幸福に向かって生きていくことができるようになる。それが今回言いたかったことだ。
わたしの定義する「終活」とはこのことであり、仕事を通して世の中や人々のお役に立ちたいと考えている。高齢社会の下で幸福に生きる人々を増やしていくことを通して、お世話になった方々に対する恩返しがしたいし、これからの人びとの役に立ちたい。俗人からの脱却は不可能だけれど、適切に折り合いをつけながら、希少になってしまったわたしの残存年数を、まっとうしたいと思っている。
株式会社鎌倉新書
代表取締役会長CEO 清水祐孝
画像素材:PIXTA