会長コラム“展望”

それって専門?それとも専門外?

2020/09/01

社会

何年か前から児童養護施設と乳児院を運営する社会福祉法人の評議員をやらせていただいている。


わたしにとって社会福祉の領域は全くの専門外ではあるのだが、外部からの視点、意見やチェック機能がどうやら重要であるということのようだ。ちなみに児童養護施設(乳児院)は保護者がいない、虐待されている、あるいは経済的な理由などで保護者と生活をすることが困難な児童が生活をする場で、わたしが関わっている都内の施設では、約100名の児童が共同で生活を送っている。


評議員会は社会福祉法人の重要な意思決定機関であるが、そこでの審議や報告事項を通して、これまでの人生からは知り得なかった、社会福祉の現場でのさまざまな問題や課題を知ることになった。現場では大小さまざまな事故やトラブルが発生している。それらの中には保護者からの全面的な愛情を受けていないが故に起こっていることや、共同生活が生み出したこともあるのだろう。保護者に代わって、職員が子供たちのために頑張ってくれていても、補える限界があるという問題もあろう。また、自治体からの財政支援があるとはいっても、職員が潤沢に雇用できるわけでもないし、過酷な労働の割には、それに見合った十分な報酬が支払える状況でもなさそうにも思える。


このように日々、数多く発生する問題や課題は、解決できるに越したことはないのだが、それが難しいこともたくさんある。


問題や課題という事象にはそれらが発生する背景が存在していて、その背景に対する正しい理解と知識それに処方箋がなければ、目の前の事象には対処はできても本当の解決には至らないからだ。


例えば、保護者からの愛情を十分に受けていないことが子供たちの心にどのような影響を及ぼすのか、またそれを補うべく施設を充実させたり、職員を潤沢に配置させたりすることにどれだけの意味があるのか。もっと言えば、これらの費用は最終的には国民の税で賄われるものだが、そこにどれだけの費用を掛けるべきなのか。このようなことをさまざまな見地から考えなくては、根本的な問題の解決には近づかない。


このような課題についてあれこれ考えていると、新たな問題が生じていることに気が付く。それは「この領域が自分の専門分野なのか」という問題だ。ひとつの領域を極めようとすれば、それなりの時間や労力が掛かる。数十年という短い人生の中で、いくつもの専門領域を持つことは難しい。プロのアスリートや芸術家は野球やサッカー、音楽や美術が専門領域であり、わたしの場合は経営者、あるいは仕事としている高齢社会における人々やその家族の課題解決というテーマが専門領域なのだろう。


そうすると社会福祉法人の評議員としては、自らの専門領域からの視点を伝えるにとどまるべき、となる。社会福祉の専門的な見識は、それを専門領域としている人たちの見解を借用するべきだし、聞きかじりで思い付きの意見をあれこれ述べるのは迷惑だろうし品性に欠ける、などと考えてしまう。


さて、昨今のテクノロジーの進展は、SNS等のメディアを大量に生み出し、そのことが情報発信の大衆化を生み出した。そこでは、何の専門性も持たない人たちが、浅知恵で自らの見解を悪びれることもなく表現する。特に最近起こった新型コロナウィルスの騒動では、ウィルスについてまだ分かっていないことが多いことや、その影響に対する個々人の受け止め方の違いが大きなこともあって(恐怖心の奴隷になっている人がなんと多いことか)、何の専門性も持たないような人たちが聞きかじった情報をもとに自らの意見を構成し、それを発信する。テレビのワイドショーの類も似たり寄ったりで、専門でもないコメンテーターがいけしゃしゃあと発言する。それが、社会をどれだけ混乱させるかはお構いなしだ。


そもそも「新型コロナウィルスの感染拡大の中で国民の利益を守る」というのが国の取り組むべき命題であり、その命題に関しての専門家なんてそもそも存在しなかったはずだ。初めて直面した課題なんだから当たり前のこと。なるほど「ウィルスの専門家」「伝染病の専門家」「公衆衛生の専門家」は存在するが、これらは命題の解決のためのごく一部分を構成するに過ぎない。これらの部分の専門家の意見を集めて、国の適切な意思決定機関がこの新たに生まれた命題についての唯一の専門家となり、最終的な意思決定を行うことが必要だった。ところが、命題を「コロナウィルス感染防止」と誤って定義してしまったことが、部分の専門家に自由な発言することを許し、国民の混乱を拡大させてしまった。そんなことではないだろうか。


わたしたちの会社においても取り組むべき命題を誤って設定してはいけないと常々話している。それは利益を最大化することではなく、社会課題の解決である。わたしたちの場合は「進展する高齢社会の中で、高齢者やその家族が、感謝の気持ちを伝えていくこと、憂いのない日々を送ること」である。利益はその目的を達成するために必要な、いわばガソリンや酸素のようなものなの、目的を達成するために必要ではあるが目的ではない。この命題さえ、間違った方向に向かわなければ、きっと社会がその存続を許してくれるだろう、なんて甘いこと(?)を考えている。


最後に、自らの専門領域は何か、そして専門領域外で専門家のように振る舞うことは避けるべきではないだろうか。


というのが、今回言いたかったこと。自分はそうならないように気を付けなきゃ、なんて考えている。まあこんな意見とてわたしの浅知恵かも知れないのだが……。


株式会社鎌倉新書

代表取締役会長CEO 清水祐孝