2010/10/01
社会
葬儀や仏壇、あるいはお墓など、供養に関わる報道がここ数年激増している。
供養に関わる消費は消費者にとって大きな出費項目であるにもかかわらず、それまでは慣習としてその価値と価格の関係は話題に載せられることのなかった。最近になって多くの消費者から一般的なサービス財と同様のものと考えられるようになった結果、その価格と受ける便益との関係にクエスチョンマークがついたということだろう。
失われた20年とも言われるデフレ経済の中で我が国の個人消費は委縮し、ほとんどすべての消費財の価格が下落している。
そんな時代の中で、たとえ供養に関わる消費財であっても価格と価値のアンバランスは許されなくなっているのだ。
さて今月では、その供養に関わる出費の中での「葬儀に関するお布施」の問題について考えてみたい。
お布施をめぐる問題は、過去においても幾度となく提起されてきたものだが、その議論が深まることはなかった。今年に入っても、島田裕巳氏の著書「お葬式はいらない」がベストセラーとなったことや、流通大手のイオンがお布施の金額を目安として提示したことで話題が再燃している。
特に後者の「葬儀の際のお布施の金額をいくらにすればいいのか分からない」という声に呼応して、イオンが金額の目安を提示したことに対しては、仏教界からは反発の声が上がるなど騒々しくなってきた。仏教系の宗派の集まりである全日本仏教界でもこの9月に「葬儀は誰のために行うのか〜お布施をめぐる問題を考える」というシンポジウムが行われるという。
この問題について手始めに、消費者の立場で考えてみよう。今日、消費者が何かの商品やサービスを買う際に価格が分からないという状況はあるのだろうか?
たとえば、近所の八百屋で野菜が並んでいる。しかし、プライスカードはない。そんな状況は(最近では少ないと思うが)あるだろう。「キャベツくださいな」「はい、200円です、毎度あり」。これで商談は成立である。このとき「今日は台風の影響で1000円 なんです」と言われれば、「あ、そう。それじゃあ今日は止めておくわ」と返せばいい。
要はこのような場合、価格は事前に知らなくとも、購入の前に「買う、買わない」の選択権は消費者が有しているのである。
そのように考えれば、価格が分からないまま購入を行ってしまう消費というものは、現代においてほとんど存在しない(つまり、そんなことは消費者が許してくれない)ことが理解できるだろう。料金を明示しない歌舞伎町の飲み屋に入店するのは、普段の消費行動を取れない酔っ払いだけなのである。
従って、日々の買い物を通して身近な存在であるイオンが葬儀サービスを行っていると知れば、多くの消費者が 「お布施の金額を教えてくれ」と問うてくることは至極当然である。さらに言えば、そのような消費者の切実な問いに対応できなければ、消費者最優先を標榜する企業としての理念にクエスチョンマークが付いてしまうのである。
このように消費者の視点に立てば、イオンの行動は当然のことなのだ。
一方の、僧侶の立場から考えるとこれは難しい問題である。
それは、檀家寺(檀家が護持していくことで経済的基盤を成り立たせている寺院)にとって、葬儀の際のお布施に固定価格が設定されてしまうと、寺院の経営が成り立たなくなってしまう危険性があるからである。檀家は寺院との暗黙の了解によって、その経済的基盤を支えてきた。その中では、お寺との関係が非常に深い、あるいは経済的に裕福な檀家は、多額のお布施を行い、そうでない檀家は、それに応じたお布施といった具合だ。仮に経済的に困窮していて、(金銭的な)お布施をすることができない檀家に対しても、寺院はその勤めを他の檀家に対するものと同様に果たしてきた。そのような寺檀関係が成り立っている家にとって葬儀の際のお布施は、通夜および葬儀・告別式の2日間の役務に対する謝礼だけではなく、過去のお寺との付き合いに対するお礼、そしてその日から、新たな仏さまの供養をお願いする着手金(言葉は悪いが)的な要素を含めたものであると考えられる。
そんな中で、目安とはいえ消費者に金額を示されれば、それが曲解され一般化してしまう、そして寺院を支える中心的な檀家まで、そのような目安に引きずられてしまうことを彼らは危惧するわけだ。さらに布施行とも言われるように、お布施はその行為自体に価値があることは仏教の大切な教えのひとつだ。
問題を整理してみよう。
ポイントは、葬儀の際の布施は檀家にとって、葬儀式での役務に対するお礼だけだはなく、過去、そしてこれからへと続く檀那寺との関係 の中での支出のタイミングであるということである。分かりやすく、仮に30万円のお布施を包んだとすると、以下のように項目と費用を強引に仕分けすること が可能である。
・これまでの、故人やその家族への檀那寺としてのサポートに対するお礼…10万円
・2日間の葬儀式での読経や、戒名を付けていただいたことに対するお礼…10万円
・家族の新たな仏さまの供養を末永くよろしくお願いしますというお願い…10万円
さてこのようにお布施を分解すると、問題となってくるのは、檀那寺がない家族の場合である。
そのような家族にとって、過去における寺院との付き合いはないわけだから、それに関しての対価は支払う必要がない。そして、将来においても檀家になる意思がない場合は、将来への対価もまた必要ない。このような家族にとってのお布施とは、あくまでも葬儀式の2日間の役務に対するお礼なのである。
導き出される答えは、葬儀式におけるお布施に対しては、檀那寺がある家族に対する料金体系と、お寺との付き合いがない家族に対するものとが自ずと異なったものにならなくてはならない、ということである。そのことを今日まで供給サイドである寺院や、その仲介役である葬儀社が言ってこなかったことが今日に至るお布施問題の核心なのである。
消費者は価値を 認めないものには支出をしないという消費の原則に従って考えれば、檀那寺を持たず将来も必要ないと考える家族にとっての葬儀における布施の金額は、2日間の役務の対価として適当な金額(たとえば10万円)に段々と収斂していくであろう。そして、檀那寺のある家族に対しては、お寺との関係に応じてお気持で、 というこれまでの対応で大きな問題は生まれまい。「檀那寺のある家族と、ない家族では葬儀における布施の考え方は異なりますよ」、このように消費者にはっ きりと伝えることで、お布施をめぐる問題はすっきりする。
お布施をめぐる問題はそこまでなのだが、そのような対応を公に行えば、そのことによって仏教界には別の問題が露呈することになる。それは、「それじゃあ負担を減らすために辞めたい」と申し出る檀家が増えてしまうことである
パンドラの箱を開けてしまうことは今の仏教界には難しい。また、仏教界と古くから関係を持つ葬儀社にも荷が重い問題だ。結局は外部から参入したしがらみのない葬儀社が、インターネットなどの媒体を通して、じわじわとこの「消費者にとって分かりにくい問題」の答えを一般化させていくのだろう。
株式会社鎌倉新書
代表取締役社長 清水祐孝