2021/07/01
社会
コロナウィルスの感染拡大が始まってから、もうすぐ1 年半になろうとしている。遅ればせながらわが国もワクチンの接種が急ピッチで拡大してきているようだが、集団免疫という水準までにはまだまだ時間がかかるようだし、海外では変異株が増えているというニュースもあるから、これで安心というには時間がかかりそうだ。
そんな中ではあるのだが、どうやらオリンピックはどうしてもやらなくてはいけない事情があるようで、開催を前提として(開催を最優先して?)国や都の施策は進められている、そんな印象を多くの人が持っていると思う。
可哀そうなのは、このような施策によって経済的に追い詰められている企業やそれを生業としている人たちで、最も目立つ例が飲食業界。特に酒類の提供を行う飲食店にとって、これができない、制限がかかるということは営業をするなと言っているのと同義だから、憤懣やるかたないことはよく理解できる。食事を3 人前食べる人はほとんどいないけど、お酒を3 人前飲む人はたくさんいる。また食事には仕入れ以外にも調理、片付けや、厨房のスペースなどの間接コストが数多く掛かっているが、アルコールは仕入れコスト以外の費用はそれほど必要ない。だから事業構造上、アルコールの提供が行われない場合は一般的にはビジネスが成立しないはずだ。なので、アルコールの提供がダメなら本来であれば店を閉めて国や自治体からの補助金で生き残りを図るということになるはず。なるほど個人経営の小さなお店は閉まっているところが多いようだ。
いっぽうで、多くの人を雇用する店は(店舗当たり一律の)補助金では賄えないのだろうし、雇用責任もある。利益はなくともせめて固定費だけでも賄いたいという思いもあるのかもしれない、店を開けているところも多いような気がして、悲しい気分になる。
飲食店は緊急事態モードを強いられるいっぽうで、医療体制は緊急事態モードになっているのかと言えば、ひとつひとつの医療機関はともかく、全体としてはそのようには見えない。物事には入り口と出口があるわけで、新規感染者の数が増えたとしても、対応能力が増強されれば大騒ぎする必要もないはずなので、こういったことが大きく報道されないことには違和感がある。報道はいつも入り口の新規感染者数ばかりで、大衆の不安を煽り立てるばかり。一日の感染者数が増えたことばかり報道して、増減をパーセンテージで示すとか、トレンドラインを追うなど同じ観点から客観的なデータを継続的に示すということはしない。人々の過度な恐怖心を引き下げることができれば、経済へのダメージを和らげることも可能であるのに。というか、今後も変異株などが出てくる可能性もある中で、そのたびに緊急事態(=経済活動萎縮&財政悪化)を繰り返すつもりなのだろうか。コロナウィルスを退治することを考えるよりも、客観的なデータをもとに国民のマインドをインフルエンザ並みの恐怖心に引き下げることこそやらなくてはならないことなのではないか。
昨年はコロナウィルスでこれほど大騒ぎしたにもかかわらず、死亡者は一昨年より約1 万人減っている。高齢多死社会のわが国で死亡者が減ったのは11 年ぶりのことで、常識的に考えればありえない事態だ。「亡くなる人が減って良かったじゃないか」と言うのは簡単だが、そのためにいま生きている人たちに強いている犠牲はどれくらいのことなのだろう、想像してみる価値はある。
関連性を精査する必要はあると思うが、自殺者は増加傾向にある。さらに言えばコロナで亡くなった人数の中には、コロナで亡くなった人と、コロナがきっかけで亡くなった人がいるはずだ。これらは両方コロナの死亡者に含まれているのだが、後者の人は、言い換えれば「何かをきっかけに亡くなった」人だから、このあたりも冷静に考えるべきだ。肺炎での死亡者は約1 万5000 人減っていて、同様にインフルエンザでの死亡者も減少しているのだから。
人の命は大切なことには異論はない。けれど、そればかりに着目するのではなく、そのために払っている犠牲についてもセットできちんと考えてみようよ、ってことを社会に影響力を持った人たちは語っていく責務があると思う。コロナ危機が終わった後に皆が気づくことになる今回のツケは想像を絶するものになるはずで、ひ弱な国力を直撃するだろう。現役の世代や未来を背負って立つ若者や子どもたちに申し訳ない思いを多くの人が共有してほしいと思うのだが。
株式会社鎌倉新書
代表取締役会長 CEO 清水祐孝