会長コラム“展望”

お金のことも大事だけど

2014/08/31

ビジネス

今年もお盆の時期が通り過ぎていった。この時期になると、お盆と関連してということだろうか、葬儀やお墓、あるいは供養などについてのマスコミ報道が目立ってくる。最近は高齢社会ということもあり、テレビの視聴者や新聞の読者もそのようなシニア層が多いという事情もあるのかも知れない。だけど多くの場合が、葬儀にはいくら掛かるとか、最近は無駄な支出を避けるために直葬が増えている、といった経済的側面を報じることに偏っていているような気がしてならない。

もちろん葬儀は消費者にとってはサービスの購入という側面もあり、そこには対価として支払う価格が大切な要素であることは言うまでもない。だけど、価格には必ずそれに対応する価値があることを、いっぽうで報じて欲しいものだと感じるわけである。葬儀には、故人や遺族にとってそれぞれの意味や意義があり、そこを割愛して、価格という一側面から論じてしまうことに対してはちょっと残念な気がしてならない。

ちょっと小難しい話で恐縮だが、一般的に商品やサービスの購入において、消費者は価格と価値が一致した、あるいは価値の方が上回ったと考えれば購買の意思決定を行う。ということは、葬儀には遺族や関係者など故人に関わってきた人にとってどのような意義や意味があるのかを知っているかどうかが本来は重要になる。これがないとなると、消費者は価値を感じない=価格も下がる、という構図に陥ってしまいがちだ。昨今の状況がそれに近い状況である。

現代では人が生活する場を変えながら人生を送るので、地域や寺院、血縁などの関係が維持しにくくなっている。結果として、葬儀の意味を伝える機能が低下している。葬儀の中心が家族にならざるを得ない時代の中で、葬儀の今日的な意義や意味を何かの機会に消費者が知ることができれば、葬儀のありかたも変わるのだと思う。いっぽうで、それのどこが悪いのだという人もいるだろう。供給者の勝手な論理だという人もいるだろう。

昔とは異なり、葬儀が家族中心のものとなっても、そこには大切な意義があるはずだ。それは、過去における意味合いとは共通する部分もあるし、いっぽうで異なる部分もあるのではないだろうか。

▲▲様

(前略)

○○××の葬儀といっても、本人はいません。

主役がいないのにどうして葬儀をするのでしょう。

前述のように、亡くなった人を (言葉は悪いですが)材料にして、

生きている人たちが、「ありがとう」といって、

優しい気持ちになったり、

自分以外の人間に感謝したり、

不思議なご縁に感謝したり、

自らの人生を見つめ直したり、

要は私たち生きている人間の大切な学びの場 なのではないでしょうか。

そんなことに葬儀の本当の意義があると、 私には思えてなりません。

実際の主役は、故人ではなく、故人の関係者。

故人を材料にして、 故人とご縁があった人たちが学ぶ場、

これが私たちにとっての葬儀なのかもしれません。

故人が先生、遺された関係者が生徒という構図の最後の授業かもしれません。

この大切な瞬間を放棄したり、

この大切な瞬間を家族だけ独占したり、

これはなるべくなら避けるべきだと私は考えます。

亡くなった人は、公共財であり、

亡くなった人は、教育者であると思うのです。

お金を掛けて、華美な葬儀をお勧めするのでは ありません。

でも、故人と関係の深かった人だけは 集まってもらう。

それが重要だと考えるのです。

経済的な余裕がなくても、

できれば、関係のあった人にだけは集まってもらい、

みんなで学び合ってほしいと思うのです。

(後略)

上に書かせていただいたのは、とあるご縁で知り合った人に問われて、答えたものである。葬儀の意味ってこんなところにもあるのではないでしょうか、という拙文である。とても一面的な捉え方であるし、間違っているのかも知れない。でも、たまに「その通りだわ」と言ってくれた人もいるから、まあそれでも良いのではないかと思い、一つのヒントとして提示させていただいた。いろいろな人がいろいろな意味づけを行っていると思うし、それぞれの人たちが、それぞれの意味を見出していただければ良いのではないかと思っている。

株式会社 鎌倉新書

代表取締役社長 清水 祐孝