会長コラム“展望”

「信じる」のではなく「活用する」

2018/10/01

個人的価値観


最近ある宗教にはまっている。

こんなことを書くと、「ついにお前もおかしくなったのか」と言われるかもしれない。だけど、この宗教の信者はたったの1人~つまりわたしだけ~で、入会金もお布施もいらなければ友人を仲間に引き込むノルマもない。さらには厳しい修行や戒律も全くない。「なんだそりゃ」って反応が聞こえてきそう~ということで今回もまたヘンな話になりそうだ。


わたしは信心深い両親のもとに育ったわけでもなく、大学を卒業するまで宗教体験はほぼゼロ、せいぜいモルモン教の宣教師に「あなた、神を信じますか」などと声を一度かけられたくらいの体験しかなかった。


もちろん当時はオウム真理教もなかった。その後、父親の経営する現在の会社に入社することになって、初めて宗教の業界(?)を垣間見ることになった。わたしが勤めている鎌倉新書という会社は、今でこそITサービスの会社になっているが、もともとは仏教に関する書籍などを出版しており、たくさんの人たちから信仰されていたり、信者数が増えている教団や教祖に接したりする機会があったのだ。当時の気付きを記述したものがあったのでまずは引用したい。




宗教法人、特に新興教団、新進教団などを見ていると面白いことに気付く。スタートは有縁の人に教えを伝えるひとりの教祖である。

初期段階ではその教祖の教えに感銘を受けた信者が、その熱い思いを周りの人に伝えていく。教祖からの教えを直接受けた信者の人たちは純粋な思いで、多くの人にその素晴らしい教えを知って欲しいと布教活動を行う。

ところが、そうした中で信者が増えてくると、その集団はだんだん組織としての運営を迫られるようになる。それまでは教祖も、ひとり一人の飛び込みの相談を受けていたけれど、信者の数が増えてくると、対応にも限界が来るので、一対一から、一対多数の布教活動をしようということになってくる。

そこで、行事を行って一度に多くの人を集めてみたり、あるいは教えを文書化してこれを印刷して配布してみたり、といった形の布教活動が重要性を増してくる。


それに伴って必要となってくるのが組織作りである。どういった布教活動を行うかを立案したり、あるいは少しずつ収入も増えてきたりして、経理をする人が必要になったり、といったかたちで組織が形成されてくる。問題はここから、組織が拡大してくると、これを維持拡大していくことがだんだん目的化してくるのだ。

最初は純粋に教祖の教えを広めることが目的だったのに、いつの間にか、「今月は○○名入会必達」などと声高に叫ばれ、多くの人に教えを知ってもらうことよりも、信者数や収入の増大が目的化する。平行して、これまでは純粋に教祖の教えを広めることを頑張ってきた人に代わって、組織の維持や拡大に長けた人物が中枢に座るようになってくる。

いったんそのような流れができあがると、次から次へと組織運営に長けたタイプの人ばかりが、組織の中核を形成するようになる。教祖にとっても、任せておけば自分のやることは少なくて済むし、お金もいっぱい持ってきてくれるから、以前のような苦労もしなくてすむ。教祖にとっても願ったりかなったりという状態が出来上がる。

こうして、ひとりの教祖が始めた小さな輪が、純粋な教えとは全く異なる意志を持ちだし、「教え」と「組織運営」が見事に分離された宗教団体が形成されるのである。たまに組織が暴走し、社会問題を引き起こす例もある。社会はその「教え」を非難するが、これは多くの場合的外れで、これは組織の肥大が生み出す膿みのようなものである。

余談だがオウム真理教の場合は、教え主が組織の暴走を首謀していたという意味で、珍しいケースであろう。これが組織の陥るわなであり、大教団といわれるものは言い換えれば、組織のわなに見事に嵌ってしまった集団、ともいえるのである。

(仏事2006年2月号巻頭)



要は一般の人が持ち得ない能力を持った教祖(いや、特異な能力を持っているというよりも、何かが欠けているのかも知れない)と組織運営のプロフェッショナルが結びつくと教団が飛躍的に成長するって話で、いま読んでみても当たらずとも遠からずだろうと思う(このことは企業も同じだが、テーマと外れるのでやめておこう)。


そんな経験をしてきたこともあり、わたしは特定の教えに対する信仰は持っていないのだが、不思議な能力をもった人が存在することについては未だに否定できそうな気がしない。科学万能な時代の常識では理解不能なことはいっぱい起こるわけで、アタマで理解ができない領域があるのだなあということは納得している。


さて、これらの考察から得られる個人的な最適解が冒頭に書いた、宗教にはまっているってお話である。宗教などと書いたがこれは大袈裟、実は信条に近いものだが、近しい話だと勘弁していただくとしよう。


・目に見えないし、頭でも理解できないけど、わたしたちを適切にコントロールしている存在があると仮定する。

・その存在を神さまと呼ぶことにする。

・神さまがいつも自分のことを見ていると決めつける。

・その神さまが「こいつを応援しよう」と考えそうな、思考や行動を取ることを心掛ける。


こんなことをしていると幸福になれるか否かは保証の限りではない。でも、労力もお金も掛からないし、できなくても罰則もないから、わたしとっては実に気軽な心掛けだ。


そして非科学的な話だが、科学なんて人間の長い歴史の中の最近500年の流行だと思えばいいわけ。自分だけの決め事だから、本当に神さまがいるかいないかなんてどっちだっていい。分からないものは分からないのだから勝手空想の世界でオーケーってこと。


いかがでしょう? ビジネス化されてしまった、この世に乱立する宗教を「信じる」よりも、理解できない特性をわたしたちひとり一人が「活用する」ほうが良いと思うのですが・・。


株式会社鎌倉新書

代表取締役会長 清水祐孝