2019/07/01
個人的価値観
朝、目が覚めたときに「今日も生きていて良かった! 超ラッキー」なんて思う人はいない。当たり前だけど、わたしたちは日頃から死を意識しながら生きているわけではないのだ。いっぽうでこれまで死なないで済んだ人もひとりもいない。これも事実である。
『DEATH「死」とは何か』(シェリー・ケーガン著)という本が書店で平積みにされていたので買ってみた。著者はイェール大学の哲学の教授、「死」についての講義は大学の人気講義になっているらしい。
死とは何か、悪いものなのか、霊魂は存在するのか否か、不死が得られればハッピーか、自殺は悪いのか、などが論じられてはいるが、著者も「私がやろうとしているうちでもっとも重要なのは、死をしっかり凝視し、私たちのほとんどがけっしてしないような形で死と向き合い、死について考えるように促すことだ」と書いているように、死について考える=生について考える、ことを学生に促すことが教授のねらいのようだ。
わたしの場合「終活」に関するメディアを運営していることもあり、このテーマについて考える機会が一般的な人よりはあるように思う。そして、そのような環境で培ってきた価値観に従って生きようとしている。現在56 歳、仮に男子の平均寿命である81 歳まで生きるとすれば、これまで生きてきた日数が365 日× 56 年= 約2万日。残された日数が365 日×(81 年- 56 年)=約9千日となる。まあ大雑把に言ってしまえば、人は3万回ぐらい寝起きすると、そのあたりで人生最後の日がやってくるということ。人によってその回数に違いはあるけど、その日がやってこない人はいない。わたしの場合は残りが既に1万日を切っていて、かなり少なくなってきた。だから、スタートの1万日や中盤の1万日とは違ったテーマを追求しながら生きていくべきなんじゃないかなぁと思っている。ひとことで言えば「私」としてのわたしから「公」を意識した生き方への重み付けのシフトである。
さて普段は意識しない、だけど必ず迎える「死」という客観的な事象に正面から向き合ったときに、人は残された日数で何をすべきなのか、何がしたいのか、を考えることができる。そこに優先順位をつけ、その優先順位に従って行動することができれば、これこそが幸福な人生なのではないだろうか。
ちょうど10 年前にこんなことを書いていた。葬儀は主役がいないのに何のためにやるのだろうと思ったのだろう。
ロックミュージシャンの忌野清志郎さんが亡くなり、その告別式に4 万人以上ものファンが詰め掛け、盛大に執り行われたことがマスコミで大きく報じられている。ちょうど筆者が高校生の頃に大ヒット曲を連発していたから、そのメロディーを口ずさむことができるし、テレビなどで当時の曲が流れてくると、当時を懐かしく思い出す。きっと同じような時代を過ごした人たちが、めいめいお別れを言いに告別式に押しかけたのだろう。 その告別式には、交友のあった芸能人も数多く参列していて、各々が弔辞を披露していた。
下記は女優の大竹しのぶさんの読まれた弔辞の一部である。
時々空の上から「愛してあってるかい」って問いかけてください。「OK、BABY、最高だぜ」って答えられるように、あなたのように強く優しく、明るく楽しく生きていきます。清志郎さん、本当にお疲れさまでした。そして本当に、本当にありがとう。
よくある弔辞と言えばそれまでなのだが、忌野清志郎さんが亡くなったこと自体に輪をかけて、参列者の涙を誘う彼女のメッセージは誰に向かって発せられているのだろう。
① 忌野清志郎さん自身の霊魂
ご本人の肉体は死を迎えているわけだから、彼女のメッセージが伝わるとは常識では考えにくい。しかし、肉体は死を迎えても、(忌野清志郎さんの)霊魂は存在し続けると考えれば、メッセージは伝わるものと私たちは信じることができる。
② 忌野清志郎さんのご遺族を含めた参列者全般
「 私は生前の忌野清志郎さんからさまざまなことを教えていただきました。彼から得た学びを残りの人生に生かしていきたいと思います。皆さんもきっと同感でしょう」というメッセージを、ご遺族や参列者に投げかけているものだと考えると、これも合点がいく。
③ 大竹しのぶさん自身
忌野清志郎さんの死を契機として、自らの生に思いを馳せ、「あたりまえのことだが命には限りがある。だから、残された時間を精一杯生きていこう」という自らの決意表明、つまり自分に対するメッセージ。
○○××の葬儀といっても、本人はいない。主役がいないイベントを私たちはどうして行うのだろう。それは、亡くなった人を媒介として、残された人たちが「ありがとう」と言い、優しい気持ちになったり、自分以外の人に感謝したり、不思議なご縁に感謝したり、自らの人生を見つめ直したりする、私たち人間の大切な学びの場なのではないか。葬儀において実際の主役は故人ではなく、故人の関係者。そこは故人とご縁があった人たちが学ぶ場であり、故人が先生、遺された関係者が生徒という構図の最後の授業である。その意味で亡くなった人は公共財であり、教育者であるのだ。
「死」は避けたいと人は考える。だから、「死について考えること」も避けてきた。でも「死について考えること」はイコール「残りの生について考える」ということだから、本当は避けてはいけないテーマなのだ。逆に言えば死を遠ざけることのマイナスは、生が有限であることに思いが至らなくなってしまうことにある。たとえば、近しい人の死に直面する葬儀の場面は、自らの生を考える重要な機会。だから尊ばれ大切にされてきた、とわたしは思っている。こんなことを伝えることも、残りが少なくなってきたわたしの役割だ。
株式会社鎌倉新書
代表取締役社長兼会長CEO 清水祐孝