会長コラム“展望”

葬儀って何だろう?

2009/06/01

社会


 ロックミュージシャンの忌野清志郎さんが亡くなり、その告別式に4万人以上ものファンが詰め掛け、盛大に執り行われたことがマスコミで大きく報じられている。ちょうど筆者が高校生の頃に大ヒット曲を連発していたから、そのメロディーを口ずさむことができるし、テレビなどで当時の曲が流れてくると、当時を懐かしく思い出す。きっと同じような時代を過ごした人たちが、めいめいお別れを言いに告別式に押しかけたのだろう。


 その告別式には、交友のあった芸能人も数多く参列していて、各々が弔辞を披露していた。下記は女優の大竹しのぶさんの読まれた弔辞の一部である。


 時々空の上から「愛してあってるかい」って問いかけてください。「OK、BABY、最高だぜ」って答えられるように、あなたのように強く優しく、明るく楽しく生きていきます。清志郎さん、本当にお疲れさまでした。そして本当に、本当にありがとう。


よくある弔辞と言えばそれまでなのだが、忌野清志郎さんが亡くなったこと自体に輪をかけて、参列者の涙を誘う彼女のメッセージは誰に向かって発せられているのだろう。


 ㈰ 忌野清志郎さん自身の霊魂

 ご本人の肉体は死を迎えているわけだから、彼女のメッセージが伝わるとは人間の常識では考えにくい。しかし、肉体は死を迎えても、(忌野清志郎さんの)霊魂は存在し続けると考えれば、確認はできないまでもメッセージは伝わるものと私たちは信じることができる。

 ㈪ 忌野清志郎さんのご遺族を含めた参列者全般

 「私は生前の忌野清志郎さんからさまざまなことを教えていただきました。彼から得た学びを残りの人生に生かしていきたいと思います。皆さんもきっと同感でしょう」というメッセージを、ご遺族や参列者に投げかけているものだと考えると、これも合点がいく。

 ㈫ 大竹しのぶさん自身

 忌野清志郎さんの死を契機として、自らの生に思いを馳せ、「あたりまえのことだが命には限りがある。だから、残された時間を精一杯生きていこう」という自らの決意表明、つまり自分に対するメッセージとも受け取ることができる。


 人の死に直面したとき、遺された人たちは、この事実を受け止め、その位置づけを行う。その過程を経た上で、自らの生を次のステップに進める。弔事は、愛する人への別れの辞であり、故人を中心とした共同体とのコミュニケーションであり、本人の次なる生のステップへの決意表明でもあるわけだ。そのように考えると、葬儀は人生における極めて重要な通過儀礼のひとつだと理解することができる。


 今日において、どうして葬儀を行わなくてはならないの?と聞かれれば、仏弟子となった死者に対して、戒を授け成仏させるための儀式である、などと答えていたりする。それは、(一部の宗派を除いて)伝統仏教的にはそうなのかも知れないが、寺院との結びつき、仏教との関わりが薄れてしまった今日においては、一般の消費者にとってほとんど説得力を持たない。そして、この状況を放置すれば葬儀に意義を見出せない層が増え続け(つまり直葬が増え続け)、葬儀という大切な通過儀礼から、人が学び成長する機会が失われ続けることになる。

 葬儀の今日的な意義を消費者に分かりやすく伝えること、これが葬儀業界のテーマであり、使命でもある。


 忌野清志郎さんの死は、4万人の参列者や多くのファンに生が有限であることを改めて認識させ、めいめいの人間的成長を促した。彼の最大の功績は、過激な生と、そのあっけない幕切れを多くの人たちに見せつけたことによって、死を通して生の意義を多くの人々に問いかけたことにあるのだろう。


株式会社 鎌倉新書

代表取締役社長 清水 祐孝