会長コラム“展望”

マスコミと大衆

2018/07/01

個人的価値観

テレビを見ない生活をしている。厳密に言えば朝のニュース番組(モーサテ)とマスターズ(ゴルフ)くらい。どちらかと言えばテレビは嫌悪の対象に近い存在だ。夜に自宅に帰ると家族がバラエティ番組を見たりしているが、こちらは全く興味がないので、受動喫煙ならぬ受動視聴だと思っている。健康を害さなければ良いが(笑)。


そんな生活をしていても、何度も耳に入ってくる下世話な話題がある。最近で言えば、代表例は日本大学アメリカンフットボール部のラフプレー事件だ。この話題、リアルなメディアのみならずネットでも繰り返し報道されるので珍しく詳細を知ってしまったのだが、酷い話だなあと思ってしまう。


ただし、酷い話だと思うポイントが、わたしの場合、他の人とずれているのでそのことを少し書いて、改めてヘンなこと考える奴だなぁと思ってもらおう。人と異なる発想をしても別に損をするわけではあるまいし。


この事件で論点になっているのは、勝つためには手段を選ばない指導者、このことを許容する大学スポーツの世界、あるいは責任逃れに終始する個人(指導者)や組織(大学)の体質といった点であり、一方でこのような事態を招いてしまった大学の危機管理体制の甘さを親切にも指摘している人もいる。


だけど、フツーに考えてみれば、この事件の論点は単に3つのことに過ぎない。1つめは、ルール違反があったかどうか。2つめはルール違反があったのならば、その責任はマネジメント(指導者)、あるいはプレイヤー(選手)に帰するのか、またはその両方なのか。さらに責任が両者にあるとすれば責任の比率はどの程度が適当か。3つめがペナルティ(処罰)はどの程度が妥当か、とまあこれだけである。そして、1つめのルール違反についてはビデオを見れば明白だから、あとは責任の所在とペナルティについて決めればよいだけである。


さて、ここからが問題。責任の所在とペナルティを決めるのは誰の役割かという点である。これについては社会の注目をここまで浴びた以上、客観的な立場にある第三者がきちんと調査を行った上で、それをもとに決めるというのが、それこそわたしたちの社会における「ルール」のはずである。


ところが、現実に繰り広げられているのはマスコミによる「空気」や「ムード」をもとにした審判である。彼らマスコミは客観的な立場の第三者ではない。大衆の興味関心を煽り、センセーショナルな報道を行うことで視聴者や読者を増やし、利益を得ようとする利害関係者である。とても客観的な第三者とは言えない立場の者が、知り得た情報の中から自分たちにとって都合の良い一部だけを切り出して報道し、大衆の思考を推定有罪へと誘導していく。人を裁く権利をもたない連中が真実を正しく知る前に、想像とムードで、人に社会的制裁を加える。もちろんそんな意識も悪気もないのだが。


無論マスコミがこのようなことばかりをしているわけではなく、社会にとって有益な役割を担っていることも事実ではある。しかし、マスコミにはこのような側面があることをわたしたちはもっと知っておくべきだろう。もう少し突き詰めれば、マスコミがこのような方向に向かってしまう元凶は大衆の関心のレベルの低さにある。わたしたちが、もっと物事を冷静かつ客観的に捉える能力を備えていれば、問題は当事者間で解決するべきものであり、事実を知りえない関係のない人たちが割り込むべき問題ではないと理解できただろう。


そのように考えると、結局は教育の問題に突き当たる。わたしも企業活動を通してあるいは個人として微力であっても社会の役にたちたいと思っているが、結局は教育こそが最大の社会の課題なんだろう。沸き起こる「興味」「関心」「感情」の単純な奴隷にならない個人を増やすことが何より必要なのだと思う。

さあ、テレビのスイッチを切りましょう!

株式会社鎌倉新書

代表取締役会長 清水祐孝